“極真空手の存在価値や品位を守る”

極真空手の創始者であった大山倍達総裁の逝去後、極真空手は幾つかの派閥に分裂しました。そして現在も離合集散の繰り返しです。
それらの分裂の結果、極真空手の道場は全国各地に乱立しました。分裂前は、極真空手の道場は敷居が高い上、各地域に支部道場も少なく、生徒は先生を選べませんでしたが、今では生徒が先生を選べるようになり、極真空手を習う側には良い状況になったとも言えます。
しかし昨今、極真空手と称し道場を経営している一連団体においては、「極真空手の基本も型もない」道場もあることも事実です。
「経歴」や「極真」の名前にしがみ付き、全く稽古もせずに「今は動けない黒帯」が師範・先生を名乗っている道場もあります。
また、総裁の存命時代には考えられないほどの高段者が続出し、自ら師範と名乗り「型」どころか「基本稽古」さえも覚束無い道場もあります。

こういった現状を鑑み、大山倍達総裁の正真正銘の内弟子として直接手ほどきを受け、全日本や全世界空手道選手権大会でも実績を残された『大石代悟範士』が、本来の極真空手の存在的価値や品位を守るべく、正しい技術の整理・指導や、「心・技・体の技量」を確認した上での段位認定及び師範認定等を適切に行い、大山総裁が作り上げた極真空手が正しい形で継承・伝承・普及して行くべく「国際空手道連盟 極真会館」世界総極真を設立しました。

“地に沿った基本、理に叶った型、華麗なる組手”

大山倍達総裁が創り上げた極真空手の理念は、「地に沿った基本、理に叶った型、華麗なる組手」である。
その理念を劣化させないように、丹田と軸、呼吸法などをしっかりと意識した基本・移動・型・組手を通して、精神性をも追い求める稽古体系こそが極真空手の神髄である。
代表である大石代悟範士は、総極真の理念を次の様に語っている。
「私は大山総裁から学んだ極真空手を、私自身の体を通り道として体現させる役目があると思っている。だから、その通り道にアカやホコリを溜めてはいけない。
そして、その混じりっ気のない純粋な極真空手の総てを、稽古体系を劣化させずに総合的に追い求めるための稽古集団こそが総極真である」と。

“「反復」の無限の可能性”

大山総裁が亡くなってから、組手試合と型試合を抱き合わせた大会が多く行われているが、型試合用の、見た目の上手さや表現力だけを追求した稽古では、実戦空手である極真空手の型に非ず、また、組手試合に出る人が組手だけの稽古では、品格ある空手や格調高い空手とは程遠いものになってしまう。

最近では、極真の型の「分解」なども行われているようであるが、大山総裁は「一つの型は3千回」、「人が作った型でも、3千回やると自分の型になる」と、常に仰っていた。
大山総裁自身、型の分解は全く行わなかったことからも、それぞれ各自が、修行の過程で「型の用法」を、自分の肌で、自分の心で、自分の体で修得することを常に念頭に置き、稽古を積んでいけば、高段者になった時に自然と身に付いているという事が後になってわかった。
私は今でも、「反復」の中から無限の可能性が生まれてくると信じている。

空手の基本と型は、流派の生命線である。色々と理由を付け、型を避けて通る事は簡単であるが、型を継承していくことは大変な根気と努力を必要とする。その根気と努力が道場の土台となる。
その土台(基本・型)の無い道場は、浮草の様に常に回りの風や空気に流されてしまう。

私が大山総裁から学んできた極真空手の型は、気迫、力強さ、躍動感、軸の強さなど、どの型も競技の型ではなく、深く強い極真の型である。極真空手の型は、基本→移動→型→組手と続く普段の稽古体系の中から生まれるものである。型だけ稽古しても効果は薄く、組手をやって初めて力強い型となって空手に生きるのである。
力強い型とは、力任せの突きや蹴りではなく、軸の強さを言う。軸が弱いと、突きや蹴りに体が引っ張られてしまう。軸を強くするには、基本稽古が一番であり、結局基本稽古に帰るのである。

このウェブサイトを訪れた皆さんが、今一度、大山総裁直系・本流の極真空手に触れるきっかけになれば幸いです。